周りから評価されるクソでかい評価不要になること
前略。ルックバックが公開されて、みんなルックバックが刺さったって言ってる。ある人は事件と絡めたり、ある人は映画と絡めたり、自分語りをしてみたりしなかったりして、技術的評価をみんなこぞってしたがっている。
ルックバック、刺さる刺さらないは読み手が勝手に言ってるだけで、クソでかい評価不要じゃないのだろうか。そんな気がする。
うまく言えない。私はクラスで一番〇〇ができたことがない。
クラスで一番〇〇ができるのはオタク的花道であって、青春にあまりそういうことがなかったのか、はたまた私の共感能力が低いのか、刺さる・刺さらないの評価軸ばかり出てくるところを、なんだかなぁと思ってる。
刺さるとか刺さらないとかそういう次元じゃねぇんだよ。クソでかい壁とかクソでかい歴史的建築物の塔だとかに、刺さる・刺さらないみたいなことは言わないだろう。そうさ、記念碑みたいなものなんだよ。漫画の神様と1回こっきりのダンスをしてみたい、だとか、そういう表現者の夢を詰め込んで、なお受け手に押し付けがましくせず、それでいてクソでかい壁みたいな「チカラ」で祈ってる感じというか、刺そう刺そうとしてないで評価不要寄りで、周りが勝手に刺さってるだけというかさ。
クソでかい評価不要になりたい。クレイジークレーマーが流れたら最高だろうなって思う。
刺さる描写が全然なかったわけではなく、それでいて刺さるとは全然違った感想を持ってる皆さんに、その読み終わりにクレイジークレーマーとか流れたら最高だなって話をしたい。事件の話とか、技術的な話は誰かがするだろうしナンセンスで、刺さる・刺さらないはチープな話でしかなくて、今日という夏の日に、私達はそこそこの大人になって、ルックバックを読んで、比べることもできないような自分の子供の時代と比べたりなんかして、それでもルックバックはクソでかい壁であってほしくて、気軽にクソとか最高とか落書きできるクソでかい壁であってほしくて、評価不要でじっと立っていてほしい。
天上におわしますあのクソ。なんとか玉はよくそう言ってるあいつと、みんなダンスが躍ってみたくて、そのダンスパーティーのフロワに俺も立ってるって言いたくて刺さってるなんか言ったりしてさ。
でもそんなの、クソでかい評価不要の壁と親しみをこめてるなんてクソみたいな評価の仕方なんじゃないかなと思うのは、私がまだ若いからなのかもしれない。
クレイジークレーマーが流れたら最高なんだけどな。
私がこういう時聴きたいのがクレイジークレーマーしかないから、私だってクソなんだろうな。吹けば飛ぶようなカスみたいな鑑賞論を述べたところで、刺さる・刺さらないの土台にすら立てないというような。
でもさ、この話はクレイジークレーマーなんだよ。私のチープな鑑賞論で出た結論はそれしかなくて、ありもしない神々の青春時代の鬱屈を埋めてくれるチープな何かは、親しみを持ってクソでかい壁にだって、学級新聞でクラスで一番上手い4コマ漫画を描いたりしたことがあるんだって、証明してくれるような何かは、各々表現の神とかあの天上のクソとかと躍ってくれる途上で潰えた星でしかなく、多分刺さる・刺さらないはそれと比べたらチープすぎて何のチカラもなくて天上の漫画の神に捧ぐ評価不要のクソでかい記念碑みたいなルックバックは、その神の片鱗を知らないようなチープな評価なんかせずに、言いたいことを胸の内に置いといて、クレイジークレーマーなんか流したりして、少しでも親しみを持とうとして、それでいてクソでかい評価不要の記念碑であってほしい。
ルックバック修正版、クレイジークレーマー不要で、やっぱりクレイジークレーマーみたいな読者の考えるスキマが必要なのは、甘えじゃないですか、みたいなこれ以上切り詰めてどうするんだみたいな切り詰め方をしていて成立していて、どうして………。ルックバックしてるから。きっとそう。手が届かない
— アールグレイ アフォガードフラペチーノ (@kikuturubami) 2021年8月2日