day//Dream

アリジゴクの中より(世界の車窓から)

ネロ・ターナーのライのキャッチャーは"ブラット"なのか

これがもし小論文だったら、ネロ・ターナーのライをキャッチしてるのがブラッドリーであろうが、ネロ・ターナーにライのキャッチャーなんておらず、がらんとした彼のライ麦畑には誰もいないのか。そんなことよりそこまでの過程が大切だって借金玉は言ってた。

もし、これが小論文ならね。

ネロ・ターナー。彼はゲームに出てくるキャラクターである。そこそこ強く、見た目は成人男性だがそこそこ長く生きていて、そこそこ育ちが悪く、どうやっても救えない他人ばかり見つめて生きてきたような、そんな奴。

これを書いてる私はゲームについてあんまりやるほうじゃないし、ゲームだって序盤を読んだだけ。この話のソースはほとんど伝聞だったりする。でも、安心してほしい。ネロ・ターナーがライのキャッチャーを探しているような、そんな性格をしてて、かつ、ヤクザな盗賊業でブラッドリーの部下をやり相棒まで登りつめ、裏切って余生を過ごしてたら再会した。これだけでこの話はできてしまうのである。

つまり、ブロマンスにはお誂え向きの話題ってワケ。

ライのキャッチャーを探してる。それはどういうことなのか?

でもとにかくさ、だだっぴろいライ麦畑みたいなところで、小さな子どもたちがいっぱい集まって何かのゲームをしているところを、僕はいつも思い浮かべちまうんだ。何千人もの子どもたちがいるんだけど、ほかには誰もいない。つまりちゃんとした大人みたいなのは一人もいないんだよ。僕のほかはね。それで僕はそのへんのクレイジーな崖っぷちに立っているわけさ。で、僕がそこで何をするかっていうとさ、誰かその崖から落ちそうになる子どもがいると、かたっぱしからつかまえるんだよ。つまりさ、よく前を見ないで崖の方に走っていく子どもなんかがいたら、どっからともなく現れて、その子をさっとキャッチするんだ。そういうのを朝から晩までやっている。ライ麦畑のキャッチャー、僕はただそういうものになりたいんだ。

ホールデンは、ライ麦畑のキャッチャーになりたいと言った。崖から落ちそうな子をキャッチするという意味で捉えがちだが、この時キャッチするのはホールデンである。

じゃあ、ホールデンのライをキャッチするのは何者だろうか?

ネロ・ターナーはどちらかというと、ライ麦畑に崖に落ちそうな人間を戻すということを、崖ギリギリで行ってるとして、そのネロ自身をライ麦畑に戻す者はいるのか、それはつまり"ブラット"なのか。

そういうことを考えるのがこの記事の全てであり、別に結論はどっちでもいいのだ。

結論によってゲームの展開が変わるワケでもないしね。

だから今回は、ブラッドリーがネロにとってのライのキャッチャーである。こう仮定しよう。

夢は膨らんだほうがいいし、デッカいほうがいい。

小論文は、主張、根拠、論拠、再主張で構成されており、私は根拠を書かないといけない。

根拠だ。ブラッドリーにはそういう、ライをキャッチできるような実力と実績がある。盗賊団だ。つまりは寄せ集めで烏合の衆で、そこら辺の掃き溜めを漁って、そこそこの結果を出すチカラを持っている。

彼は別に、こぼれ落ちるライ麦を救おうなんざ思ってもないだろうさ。

彼が価値あるお宝をコレクトしたい、みたいな願望でやってるのか、はたまた違う願望があるのかはわからない。しかし彼は、こぼれたライ麦をキャッチする、これに近いことを何百年もやっており、多分そのことでドンになれるような実力もある。

実績と実力があったからって、ネロに対してそうなのか、そういうところは違うのではないかな?

ネロ・ターナーもそうやって集められた烏合の衆のひとりで、ブラッドリーの相棒まで登りつめて組織を抜けた。詳細は原作でもまだわかってないらしいけど、そんなことどうだっていいのだ。

ネロ・ターナーは元はといえば有象無象で、今ようやく「こぼれ落ちるライ麦をキャッチしたい」と思えるようになり、組織を抜けて余生を過ごし、収監されているブラットと再会した。

ネロ・ターナーには女衒の王になるような才能はなく、そこそこの勤勉な青年として第二の人生をしており、つまり真のライ麦畑のキャッチャーになれない。

ライ麦畑のキャッチャーになりたいと思いつつ、普通に働いて、普通の青年にできる範囲の施しをして、ライ麦畑からこぼれ落ちる他人の人生を後ろ向きに考えながらも、毎日テキパキ働けるような、そんな生活をしている。

でも、彼は沢山のライをキャッチするような魔法のようなチカラが存在するのを知っている。

ライ麦畑の真のキャッチャーになる才能のないネロにとっては、ブラッドリーのその実力と実績は、まさに魔法のような存在なのだ。

ブラッドリーは、ネロをライ麦畑に戻すようなことをしない。ネロ・ターナーはブラッドリーの相棒まで登りつめるほどは強く、有象無象ではないからだ。

しかし、ブラッドリーは今、収監されている。簡単に言うと悪いことができなくなっており、だから、面倒見のいい、ひねくれた正義のヒーローみたいな立ち振る舞いをしてる。

多分それが、ネロ・ターナーが後ろ向きにライ麦畑からこぼれ落ちる人生を救えなくても、ブラッドリーが好き勝手に暴れて、関わった誰かの人生を幾分かマシにしていく。自分ではなにひとつ救えない彼にとってのライをキャッチャーするような、そんな救いのような概念なんじゃないのかな。そんな気がする。

好き勝手生きてる。それだけでいい。

詳細は伏せるが、これをもう少しカップリングに寄せたような言葉があり、私はそれを書いてある創作が好きだ。理解しようとして、まだ理解が浅いなって毎回思ってる。

そろそろ論拠になる。ネロ・ターナーにとって、ブラッドリーが彼のライをキャッチャーすることは、ネロ自身が救えないどこかの誰かを代わりにブラッドリーが救ったり救わなかったりするからであって、多分そういうところがネロ自身が崖を見つめながら、崖から落ちないように守ってる存在なんだと思う。

ネロ・ターナーにとって"ブラット"は崖から下ばかり見つめる彼のライをキャッチしてくれる、そんな存在だ。そう考えたほうが、彼の人生も幾分か報われるし、オタクだって推しが報われる人生を見たほうが健康的じゃあないのだろうか。

P.S.許さないって素晴らしい感情だよね!!!